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新興宗教


 人は自身がこの世に存在しているという事に、戸惑う。 知れば知るほど、戸惑う。  だから 生悟り のところに集ったりする。 これが新興宗教というものだろうと思う。 近代になって生まれてきた宗教団体は、すべからくこれであり 宗教的価値は無い。

 Organization 格の一員になるべからず。 人は、個人たれ。 信心を持った個人ほど、強く美しいものは、無い。 



詰まって虹


 言葉が詰まって、出てこない事がある。
 ありすぎて、アーチになって詰まっている。 
 虹は、アーチだ。 
 これは吉兆か。


 

 会話と場


 会話とは、不思議で面白いものだと思う。 声の届く距離で自然発生する人の会話とは、相手の所作まで含めたやりとりだ。 これが、場 である。 場 には自ずと規模があり、十人前後をその限界とするかと思う。 

 会話には因果があり、応報のうちに成立していく。 文化はこれを破綻させないように、作法を成立させていたのかもしれない。 作法を身につけ、存分に誰とでも会話してみたいものだ。



手を汚し、汗をかく


 自分に重要な何かが進行しているとき、所在なく何かしているふりをするような事は。 ないほうがいい。

 指示をする側と、それをやる側。 現場、現業というものが軽んじられてはならないと思う。 指示をする側は組織の力を背景にして、手を汚さず汗をかかず。 組織の理屈で出世する。 この現存するいびつな資本主義は、組織を野放しにしている点で。 救いがない。 



国 という組織


 タレス、ガリレオ、ニュートン、アインシュタインの後継者たちは、よくやっている。 釈迦や孔子の後継者だって、意外なところでよくやっている。 偶像崇拝を認めない彼らも、たいしたものだ。 人類は、悪くない。

 問題は、国だ。 国は、暴力を持っている。 Organization 格 、組織の最高峰にあるのは国だ。 最強の法人格が、国なのだ。 

 人類は、組織についてもっと考えなくてはならない。 組織に人が使われては、ならない。 



法人格 : Organization 格


 人格といった場合の、格。 これは内面とそれがなす振る舞いによって、現される。 この格は、人間によって組織された例えば会社、企業などにも宿る。 法のみが、これらを縛る。 法人と呼ばれるゆえんかと思う。 



 西に進む


 少し昔のこと、インドの富豪が 「 文明は西へ進む。 インドに発し西に回り。 白人を経て日本に達し。 またインドに戻る。 」 こう話していたと聞いた。 東京が西に中心を移しているのをみて、妙に納得したものだった。

 しかし、仏教は圧倒的に東へ進んだ。 その果てが日本なのであり、西の端は 東の端。 日本がその出くわす場所なのだと、思う。 



 不愉快という、ババ抜き


 人の心を踏みにじることは、気持のいい事らしい。 それですっきり、朗らかに毎日を過ごせるらしい。 資本主義、自由主義経済、そして権威主義で優位に立つものが。 不愉快というババ抜きのババを、引けと強いる。 当然のように、手札は全部 ババ だ。 



生きる



 生きるとは、この世を体験するという事。 得がたきを得ているという、ありがたさ。 

 我生きる、これに勝る不思議なし。






アインシュタインと、視覚


 光 が、どれだけ特別なものかを 一分のすきもなく描いて見せた アインシュタインに、 最大の敬意を表したい。 それによってもたらされる我々の 視覚 というものが、どれだけ特別なものかを、物語っている。



あや


 差し、が好きだ。 三人もしくはそれ以上、英語で言う三人称ではなく、 You & I 二人称の関係だ。  人は一人で居る時。 差しの二人で居る時。 三人もしくはそれ以上で居る時 と、 違った次元が支配して。 三人以上になると 場 が存在し、 あや というものが大手を振って歩き出す。  




 くせ者


 人が大人になるという事は、こうでなければ私でないという いわば自負をもつという事ではないかと思う。 

 それが、くせ者なのだ。 





白を求める、いのち。


  現実はいつも、真っ白でもなければ。 真っ黒でもない。 
  グレーである事に変わりはない。 
  ただし、より白を求めるのか、しょうがないで済ますのかには、
  想像の及ばない 違いがある。




哲学を競う

金、かね、経済がすべて。 
得をするか、損をするか。 
儲かるか、割りに合わないか。 
おいしいか、普通か。 

そんなこの世を、まだ続けさせてよいのか。



 自然への礼儀

 
自然は時に絶望的なまでに厳しく。 しかし、恵みの全てを与えてくれる。
 
我々は この世に、仮住まいさせて貰っているのだと言う事を、常に言い聞かせる必要があると思う。
 
礼儀をつくして、敬うべし。




 礼儀をつくして、敬うべし。

 
地図を観て、その美しさに見とれる時がある。 海岸線の織りなす、美しいかたち。
  
夕暮れに、木の枝の美しさに魅せられる事がある。 星空せまる空に、黒く浮き上がるかたち。
 
自然のやることには、うそがない。 礼儀をつくして、敬うべし。
 




知的好奇心              [文蔵]



 我々の存在理由は、知的好奇心。 これがなければ、存在する意味がない。 




 いまを観る



 澄んだ、十年後 二十年後の見地から、

 いま起こっている事をみることが出来たなら、

 どんなにいいだろう。


 いま から、とき放たれるのだ。




 心が洗われる 快感



 心が洗われる快感には、副作用が無い。   ほかの快楽とは雲泥の差だ。 

 梅を観て めでる、 犬猫 そして 子供の仕草をみて なごむ、 仏陀の境地の片鱗を かいまみて たかぶる。  これらには本来、何の副作用も無い。 これらの快楽を、堂々と追求すればいい。 

 金が無ければ成就できない快楽から、我々はもう解き放たれるべきでは ないのか。




天下に こだわる



 この世は、 天下 に。 とことん、こだわる。

 桃源郷に放出された我々の精子が、何億。 少なくとも何千万という数の中から、ほんの十数センチの距離レースで たった一つが選ばれ、天下を授かる。

 この出自をみても、我々に基本的に与えられたベクトルが。 うかがい知れる。




 我慢 

        

いつでも、どこでも、好きなだけ。
 

この性根がおかしい。
 

我慢は、惨めなことではない。
 

我慢は、人間の崇高なところに属する。




人を拝まず、哲学と信心。



 
哲学と信心があれば、他に必要なものは無い。


まっとうな意味でそれがなされれば、宗教はその部分集合となる。


 
あってもよし、なくてもよし。 されど、なければさらに吉。


 
なぜなら、人を拝んでは ならないからである。




長生きにふさわしい 生き物 



  西洋医学進歩のおかげで、なかなか死なない世の中になった。 問題は、長生きにふさわしい 生き物 に、我々人類が なっているのか、という事だ。

 歳をとってもいつまでも世の中の為に活動し、それがならなくなった時が、死ぬ時。 これが望ましい。 孫に昔の話を聞かせる、でもいい。 一服したらあがって下さいの一服が、長過ぎる人生はいかがなものか。 



宗教でなく信心



 宗教を、形 と 文字 にしてしまった大罪。 ここに気づいた人々が世を変えていくのだと思う。 釈迦、イエス、ムハンマド。 モーゼや預言者たちの至った真髄に、思いを至らせるべきだ。

 大切なのは宗教でなく、 信心 である。




仏教というよりは、ブッダ。


 この世についての認識。 これが宗教であるはずだ。 近代科学テクノロジーと相容れる仏教が、この日本に生まれ育った人間であればどんな人でも深いところに存在するというのは、とめどなく素晴らしい。



理不尽


この世の存在理由は、理不尽である。  我々に理不尽を見せる為、この世はある。





なぜ有機物は存在するのか



 有機物と無機物という言い方があるが、原子レベルで両者に変わりがない。 万物は流転する。 釈迦の言うのは、こう言う事かと思う。 
 
 この世の構成素子は変わらないのに、 生命 などという、奇跡のような存在をあらしめる。 これはいったいどのような意思によるものだろうか。 どんな力によるものだろうか。 

 そして、その頂点にある我々の責任、使命というものは、いまや限りなく大きい。



この世に在りながら、見えないもの



 たとえば電気、実は 光 も。 そして、人々の思惑 など。 この世に在りながら、その作用でしか見えない存在。 これらはまた、別格である。

 我々はこの、見えない世界に。 もとより、属している。 それが見えない存在を利用し始めたというのは、我々がまた格別なる時代に突入したと言うことだ。




大なり小なり、貴族。



 風呂をいい加減に保つのも、洗濯やその水を汲み上げるのも。 先進国に居る我々は、召使を何十人も使った生活をしている。  

 近代科学テクノロジーによる劇的革命が起こるつい百何十年か前までは、貴族にしか許されなかった生活を。 我々は先進国に居るという事で、享受している。 

 我々は、大なり小なり 貴族 。 



 すべてが借りもの



 3D 立体画像の元年といわれている。 これでゲームをやればバーチャルに もっと入り込めるだろう。 

 完璧なシミュレイションゲームをやっていたら、まるでそこで生きているような気になるだろうと思う。 その究極の姿が、私たちの生きているという事なのではないか。  

 生きている身としては、ただただ精緻にして完璧なこの世というものを驚きの目で見つめるしかない。 そして 見つめる私たちの意識は、この世を主催する側に元来 属している。

  
 この世のものは全て借り物で、用意されたものだ。 所有と言うのが、本来はありえない。 


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