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知識と見識



 「訊くは、一時の恥。」 「知ったかぶり。」 と言うように。 人は知らない事を恥と感じ、知識のあるものは鼻にかけるようだ。 知識は見識を身につけるための土台であるから、確かに多いほどいい。  だから物知りな人には、 一目おくべきだ。 

 虚心坦懐に訊ねて、知っている事を答える。 それが見栄など全く関係のないやり取りであることが、理想だ。 知識は惜しみなく与えられるべきだ。 そして、知っているだけではなくて、見識に達してこその 知識 だと思う。 
 
 見識に達しない知識は、もったいない。 



聡明なる幸せ



 もし白黒テレビが手に入ったら、それを見続けるといい。 カラーテレビを観ると感激するだろう。 幸せは実は安上がりだ。 
 
 現世的な幸せのほぼ全てとも言っていいものは、いまや金で解決がつく。 そしてその気分の良さは、右肩上がりで要求を増してくる。 同じところに留まっている事は幸福ではなく、成長こそが幸福をもたらす。 みな、これに中毒になる。 だから金が全ての世の中になる。

 この類の幸せは、とどまるところを知らない。 「もっともっと」 を、繰り返す。 これに人間の外的世界に対する探求の成果である 科学テクノロジー が与した世の中が、現代である。
 しかし聡明なる人類は必ずや、金では得られない幸せに目覚めて行くだろう。 



生きるとは、コマの回りたるがごとき状態


 
  コマはあろうことか一点で立ち、静止する。  生きるとはこのようなもの。



我 生きる。 これにまさる不思議なし。

 

 自分が生きていると言う事、これだけが唯一ほんとうに確かな事だ。 あとは全て幻かもしれない。 

 霊だの お告げだの 祟りだのと、それよりも何よりも、この見事な整合性、完璧なこの世というものを自分が生きている。 これに勝る不思議というのがあるだろうか。



文字にされなかった 経典


 釈迦は自筆の書 というものを残していない。 言ったことを私はこう聞きました、という ”経” が残っているだけである。 これはまたもや奇妙なことに、イエスにしてもムハンマド(マホメット)にしても同じ。 自筆の書というものは、残っていない。 キリスト教の経典である新約聖書は、イエスの弟子達によって書かれた物。 文盲と伝えられるムハンマド(マホメット)だが、イスラムの経典であるコーランはムハンマド自身の言葉とされるものを暗唱によって口伝され、やはり死後すこし経ってから文字化された。 生前 弟子に書き留めさせるという事は無かった。

 偶像崇拝ほどには明らかではないが、死後 千年 二千年 にも渡り自身の発する言葉がこれだけ影響を持ち続ける事を見通すだけの慧眼を持っていただろう三方が、そろって生前 弟子の誰かに対し 言ったままを直ぐその場で書き留めよ とも言っていない。 これもまた、非常に大きなメッセージととらえている。

 何故、この釈迦、イエス、ムハンマドは、生きている間、自身の境地を文字に書き留めようとせず、ただただ同時代の人に説いてまわったのか。



 欲望と信心


 この世のあらゆるものは全て、 うつろいゆく。  それでも変わらないものが我々の心の中にはある。 例えば 欲望。 飽き足りるまですればいい。 万事 飽き足りた心の状態に、いかに近づくか。 これが人の生きると言う事の要点であると考える。 これを 「信心」 と呼ぶ。 この 信心は、宗教団体に属する必要が無い。 誰でも今すぐ出来ることだ。 



 信心と仏像


 「煩悩を消したい」「悟りを開きたい」を、欲望ではなく。この世に我々が存在する 意味 ととらえる事が出来るかどうかが。 仏教に帰依するかどうかの分かれ道と考える。 この点は、釈迦の原点に戻っても全く通用する。

 釈迦はイエス マホメット(ムハンマド)と同じく、偶像崇拝を禁じた。  イエスの場合も同様だが、釈迦の死後何百年も経ってから人々の形を求める心に負けて、仏像が出現した。 キリスト教は中世に宗教改革によりプロテスタントが偶像崇拝を再び禁じ、現在 カソリックと二分している。 イスラムは千年ほども後発であるが、いまだに厳格に偶像崇拝を禁じている。

 偶像崇拝を禁じる というのは、まことに見上げた理念だ。 それを 仏教、キリスト教、イスラム教の始祖が見事にそろって戒めていた事は、大変おおきなメッセージととらえている。 現存する仏像は、文化財として尊重すべきで、手を合わせるのももちろんいいと思う。 それをきっかけに、儀式・形骸化した宗教でなく「信心」そのものに思い至ることが出来れば、それはめでたい事だ。



文字


 いまふうに言えば脳が外に出たものが、文字である。 文字は残る。 文字は目に見える世界に対する人間の探求の成果を、そのまま伝える。 目に見える人類の進歩は、おおよそ そのお陰で、前の時代のノーベル賞学者の到達地点から次の者は始められる。 積み重ねていく事が出来る。

 一方、目に見えない世界。内的世界に対する探求の成果は、やはり偉人によって語られ。それが文字となって残っている。 大きな違いは、前の時代の最高到達地点から始められない事。 積み重ねは、きかない。 助けにはなっても、地図のようなもので、自分の足で歩く事とはまったく別の話だ。



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