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文化 と 哲学              [文化の日]


 文化はある意味、原始的な哲学さえ有すれば社会的地位を得ることを保証した。 文化は伝統であり、それを壊す以上は。 哲学を網羅的にかさ上しなくてはならない。 現代は、伝統文化を捨てる代わりに。 それに見合う、哲学を手に入れなければならない。 哲学とは、哲学学者の占有物でなく。 ひとかどの市井の者であれば誰でも持ち得るものでなければ、人類社会の未来が無いと思う。


理想と現実              [文化の日]


 理想とは、ずっと真上を向いてるようなもので。 おちおち近所も歩けない。 現実とは真下を見るようなもので、こればかりでは近所の外へは出られない。 まっすぐ前を見て、しばしば真上を見、足元にも注意を払う。 これがこの世の我々のあり方である。 

 水が高きから低きに流れるがごとく、しょうがない と思う心は。 良貨を駆逐する悪貨のような、根源的な強さを持つ。 


物欲と断捨離              [文化の日]


 断捨離とは、断、捨、離。 それぞれの人の物に対する心の在り方を表している。 捨も離もいいが、必要の無いものをこの世の自らの物質的ブラックボックスに入れない、断 に尽きるのではないか。 

 断に対して、経済が挑んでいるのが現代というものだ。 ここで負けていては、捨も離も経済の思うつぼだ。 物欲は経済の思うままとなり、俗性は仏性を常に凌駕する。 

from Wikipedia
断: 入ってくる要らない物を断つ
捨: 家にずっとある要らない物を捨てる 
離: 物への執着から離れる


ウイルス / Virus              [文化の日]


 微生物を目で見る事が出来るようになったのは、顕微鏡が出来てからで。 生物で最も原始的な、単細胞生物がその限界だった。 細菌はそこに含まれる。 顕微鏡とは、光学式の顕微鏡のことだ。

 1930 年代になって、電子顕微鏡が現れた。 ここで初めて我々は、ウイルスを目にする。 白黒ながら、解像度抜群の革命児だ。 遺伝子を有機体としてならしむ構造を持った単細胞生物としての細菌とは、桁違いに小さな。 遺伝子だけを、狡猾な殻で包んだ。 宿主に感染する事のみで生物的存在となる、情報だけの塊だ。 


ポスト近代こそが、 近代 。              [文化の日]


 大陸間弾道核弾頭ミサイルをお互いに向けあって、国と言う Organization 格 が対峙する。 そこに、北朝鮮あたりが入ってくる。 中国にしろ、近代でのありようは。 まるで、そこに至る過程でこうむった落し前 のように見える。 

 ポスト近代などと言われるものこそが、近代であり。 これまでの近代というものは、それへの序曲だろう。


国を Organization 格 たらしめる、行政府          [文化の日]


 Organization 格 である事そのものに価値があるというのが 国 で、宗教やスポーツなどなど、横軸でまとまる組織を圧倒している。  国の礎は、しかし民族であり、文化である。  行政府を、民族その文化がどう御していくのか。  ポスト近代の、要になりそうだ。  文化や民族のあり方を言うのであり、むしろ文化は多様なほど、人類として強い。


人前で端末をいじる              [文化の日]


 近代の置き土産といっていいこの携帯、スマホ。  通信端末をいじると言う事は、目の前に居る人より優先すべき相手が携帯の向こうに居ると言う事で。  半径数メートルの人が会話出来る 場 において、失礼な行為だ。  光の速度で動く通信も、人の体をそこに持っては行かない。  この違いを知ることが、近代からポスト近代への鍵になるのだろう。 

 スマホを人の性器に例えれば、人前でそういじるものではない。


≪ 会話と場 ≫
http://bunkanohi.blog.so-net.ne.jp/2012-01-02


日本の仏教宗派              [文化の日]


 日本の仏教宗派は、奈良時代に少々。  平安の空海、最澄。  比叡山をもとに鎌倉期に法然、親鸞、日蓮、道元、栄西など繚乱し。  ほぼ、いまの仏教宗派を形作る。  焼香の回数やらなにやら、枝葉末節で うちはうちは 。  お釈迦様に行き着けば、 ひとつではないか。


洗濯              [文化の日]


 人の境界に存在する、衣類。  これをリニューアルする、洗濯。  近代革命前の人が手でおこなっていた時代を思い、感謝する。  電気洗濯機は、人の労役を軽くした。  これはかつて、女性の手によってなされていた。  ここが大幅に軽減された。 女性の社会進出。 共働きや一人世帯などと、簡単には言えなかっただろう。 


 乱暴な嵐              [文化の日]


 ゲリラ豪雨やら 竜巻 やら、雨の嵐に続いて。  雪の嵐 が襲いかかる。  冬の雪の世界でも、前代未聞の事が起こっている。  異常気象。  これが人類の活動によって地球大気組成に影響を及ぼし、その結果でなければ幸いだ。  有史においては異常、という事であれば。  有史によって培われた科学は、真摯に向き合うべきではないか。  ここに費やされるのは、真の防衛費と言っていいだろう。  人の帰属意識が 国 にとどまっていては、これは成されない。 


 イスラム              [文化の日]


 イスラムは 回教 とも呼ばれ、 日本人にとっては何か分からないものだった。 種子島には宣教師が大航海時代から入り込み、宗教改革を経てアメリカに占領された身からすれば、 キリスト教には親しみがある。 しかし回教は、砂漠の妙な宗教だった。

 仏教が釈迦、キリスト教がイエス、 イスラム は ムハンマドである。 モハメットともよまれる。 聖徳太子と同じころ、アラビア半島にいた人物で。 仏教でいえば、玄奘三蔵の時代になる。 お経、聖書にあたるものは コーラン とよばれる。 ムハンマドの言葉とされ、ながく 口伝 で伝えられたそうだ。 それが書物にすることが許され、こんにちでは何か国語にもそれが訳されている。 コーランにはイエスもモーゼも出てくるし、十字軍がエルサレムを争ったように、キリスト教、ユダヤ教とイスラム教は近しい。 

 釈迦、イエスと同じく、マホメットは偶像崇拝を禁じ。 これを全宗派がいまも禁じているのは、見上げたものだ。 近親のキリスト教は、宗教改革でプロテスタントが出て偶像崇拝を禁じた。 プロテスタントは英国、米国と受け継がれたが。 そことイスラムの怒りの琴線が、大きな争いをおこす。 テロはやめてほしい。 同等の事をこちらはやられているんだ、と言うなら。 ポスト近代の住民は、よく聞き理解に努めたい。  イスラムについて偏見を持つのは、よくないし失礼だ。


 黒曜石とスパイスの貿易              [文化の日]


 その時代の黒曜石、スパイスを。 大陸を越えて海を越えて人が共有するのは、人のあるべき姿だ。  これだけの高みに立った人類なのだから、どれが黒曜石かスパイスか、しっかり見極めるべきだろう。  生鮮食料に、その資格があるのか。

 自然からいただいたものを、組織による加工と流通でやり取りするのは。 産業革命後の検証が、よく済んでからまっとうなものになる。  1969 年をさかいにして、近代テクノロジーにのって我々が行っている事に疑問を持つべきだ。 


文化は物差し – 対等と出世              [文化の日]


 人はそれぞれ、対等である。  憲法にそう書けばいいい。  どこがどう対等なのかを決めるのは、民族固有の文化である。

 Reality (現実) において、人が対等のわけがない。  しかしその基礎の部分で少なからず対等の部分がある、 というのが近代においてかろうじて我々がたどりついた。  うるわしき部分だ。  そこは、大切にしようではないか。

 文化 とは、人の元来持つ 対等 な部分と、 社会による 出世 の境界線を画す 物差し である。


与えられた 眼鏡              [文化の日]


 人間、長生きすればいつかは必ず 眼鏡 の世話になるものだと思う。 光学 の話で、これが無かった長い時代を。 いま思う。  光の屈折学、である 光学 は。 ガリレオ、ニュートンに少し先んじて、与えられている。 


 テーブルマナー – 所作、作法             [文化の日]


 食べる事は、そもそも いやしい。  人様の命を戴いて、快感まで得る。  だからこれをいかに いやしく 見せないかに腐心したのが、 テーブルマナーというものだろう。 

 見えない いやしさ にいやしい者が、みな非のうちどころがない テーブルマナー を持ち備えている。  これを末法というのではないか。  現実は常に極と極の中間にあるが、今どちらの極に近いだろう。  人間なんてそんなものと言う、 子供なんてそんなものと言うに等しい。 


科学脳を包括する、哲学脳 [文化の日]


 産業革命以降、今日までの社会変革を 近代科学テクノロジー革命と称したい。 人類を一つの体ととらえれば手足とその五感を、人の体の外に科学で作り出したサイボーグ技術で飛躍的に発展させたのが現代だろう。 頭の一部も、科学脳というところではいい線をいっている。 

 知り得たことで判断し、手足が出来る事のおもむくままにせず、むさぼらない。 日本では縄文の時代に常識だった。  人の頭が重くなり、一度でんぐり返った 哲学脳 が求められる。


イスラムの酒              [文化の日]


 酒の境地も、捨てがたい。 こちらは お上 が酒を認めているが、イスラムではこれを禁じ。 ホメイニ は、 ハシシ は身を清めると言った。   どちらかを選ばなくてはならないような 地球幼年期 は、早く終わりにしたいものだ。 


カトリックとプロテスタント、偶像崇拝とイスラム          [文化の日]


 日本が長崎で相手にしたのは、まずポルトガル、ザビエルのスペイン。 ルネサンス後のヨーロッパの隆盛が、鉄砲とキリスト教になってやって来た。 あちらから見れば、宗教革命、プロテスタント革命の直後である。 続いて日本が相手にしたオランダ、幕末のイギリス、そしてアメリカは。 総じてプロテスタントである事を、興味深く思う。

 免罪符あたりを大金で取引していたというようなキリスト教界に対し立ち向かった宗教革命 プロテスタント には、共感するところがある。 昭和三十年代の質素な民家を使った、マリア像の無い教会を思い出す。 金満聖職者を告発するなら誰でもできるだろうが、偶像崇拝の禁止をその存在理由にする。 釈迦もイエスもムハンマドも禁じた偶像崇拝、これを今も厳に禁じているのは プロテスタント と、イスラムだ。 

 このイスラムとプロテスタントの国が激しく血を流し合うのは、不思議だ。 共産主義と資本主義ではない。 偶像崇拝の禁止という、見上げたところで一致している両者が ここまで対立するのは、双方の宗教者にとって見過ごすことのできないはずの事だ。 

 造り物の宗教的な像に有り難く手を合わせ、拝む。 かろうじてこれをやっていなくとも、しかし偶像が社会で大いに幅を利かす。 資本主義社会、メディア社会。 プロテスタントの国々が主導してもたらしたようにも見える。  ひいては、物質の世界と精神の世界を明確に区別してとらえる感性の問題に繋がる。 


追記:
もとより神道、仏教の影響が社会的に強い日本では、こんにちカトリックとプロテスタントはそれなりの範囲で拮抗した状態である。


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